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江戸時代からクジラの流通基地

近代捕鯨の歴史・鯨文化

下関でのクジラとの関わりは、太古からありました。

鯨骨の化石の出土をはじめ、弥生時代に鯨骨で作った

アワビオコシ(考古博物館蔵)で知ることができます。

本格的な関わりがみられるようになるのは、会場交易が盛んになった江戸時代からです。


問屋を中心とする商業が盛んであったことから、クジラを捕獲するのではなく、

捕鯨をする鯨組に資金の提供・資財の補給、そして流通と消費地としての機能を果たしていました。

長門で捕鯨が盛んであったころ、下関の商人が資金提供をしたり、

北前船で(きたまえせん)で鯨油、肥料になる鯨骨や皮を北国への積み荷として扱っています。

幕末に高杉晋作の創設した奇兵隊を物心両面から支援した、

白石正一郎も薩摩(鹿児島)へ鯨骨の販売をしていました。

 
   
    

明治時代には加工・販売の基地

明治時代には加工・販売の基地

明治時代末、捕鯨砲による近代捕鯨がはじまり、長門で岡十郎・山田桃作によって

日本遠洋漁業株式会社が設立され、下関に出張所が置かれました。

これによって、長門・下関は、近代捕鯨発祥の地となりました。

のち、下関で創業した西宗商店は、大阪まで進出し、クジラに関する商品の一手販売を行い、

関西海産物問屋のなかで有名になりました。

秋田商会も中国大陸への交易で、クジラを扱っていたことがわかっているなど、

下関が鯨製品の加工・販売の基地となりました。


    

           旧秋田商会


昭和のはじめ、南氷洋捕鯨へ

昭和のはじめ、南氷洋捕鯨へ

日本が南氷洋へ進出し、捕鯨を始めたのは、国司浩助(日和山公園に胸像)が

昭和 9 年( 1934 )に、日本捕鯨株式会社を創立したことによるものです。

続いて、中部幾次郎が下関で大洋捕鯨を創立したのが

昭和 11 年( 1936 )のことで、南氷洋捕鯨が盛んになりました。

以来、下関が南氷洋捕鯨の基地、大洋漁業株式会社の発足の地として、

全国に知られることになり、捕鯨は一時、中断となりました。


クジラの町・下関へ

クジラの町・下関へ

戦争が終わると、食料不足と、動物性蛋白質の確保が急務となりました。

この両面を解決する方策として、昭和 21 年( 1946 )に捕鯨が再開され、

その第一船は、下関の唐戸港から小笠原へ向けて出港しています。

そして、次の年から本格的な南氷洋捕鯨が再開され、

下関はクジラによって戦後復興を遂げたといえるほどの繁栄をもたらしました。

大洋漁業は、プロ野球の球団「大洋ホエールズ」(現在の横浜ベイスターズの前身)を組織し、

女性吹奏楽団・ペンギンシスターズ(全国コンクール優勝)などを擁し、

下関最大の祭り「みなと祭り」には、大きなクジラの山車が市中を練り歩き、

漁港節という歌の歌詞には、「札束積んで・・・」と歌い込まれ、

クジラ料理専門のレストランも営業するなど、クジラの町・下関という名称さえありました。

これは、昭和 30 年代から 40 年代にかけて、下関に水揚げされた鯨肉が、

最高で 2 万トンにも達していたこと、

捕鯨船の造船など水産関連産業が隆盛していたことに、裏付けられたものです。

しかし、南氷洋では、捕鯨オリンピックと称し、世界の国々がクジラを競って捕獲したため、生息数は激減。

昭和 62 年( 1987 )、ついに商業捕鯨禁止という終末を迎えることになりました。

   林兼産業と親子クジラのネオンサイン
   (注意:現在ネオンサインはありません)
    

        「みなと祭り」のクジラの山車


商業捕鯨の再開を目指して

商業捕鯨の再開を目指して

平成 10 年( 1998 )、下関港から南氷洋に向けて「南氷洋鯨類捕獲調査船団」が出港しました。

この船団は商業捕鯨禁止以降、南氷洋での鯨類の生息がどのように復活しているかを調査するものです。

平成 19 年( 2007 )には連続 10 回目の下関港出港を数えています。

平成 13 年( 2001 )には、市立しものせき水族館「海響館」が開館し、

国内で唯一のシロナガスクジラの骨格標本が展示され、全国の注目を集めました。

このような活動が背景となって、平成 14 年( 2002 )、

第 54 回国際捕鯨委員会年次下関会議が開催され、

世界各国から捕鯨関係者が集まったことは、下関とクジラの関わりを世界に発信する機会となりました。